「目に見えないものを表現できるようになりたい」と、ある時ふと思ってノートにメモをした。目に見えないもの。たとえば、ある空間の持っている独特の雰囲気、肌にまとわりつく湿度、ミントをちぎった指先に残る香り、誰かの発した一言から周りに広がっていく見えない波紋……。
そんなことを考えていた数日後、ホラードラマの主演が決まった。役どころは普通の主婦なのだけど、日常のふとした瞬間に他の人には見えないもの(お化け)が見えてしまう女性だという。思いは現実になるのだろうか。ただ、「目に見えないものを」とは思ったけれど、何も“お化け”じゃなくてもいいのに……。
何を隠そう、私は大のホラー嫌いだ。子どもの頃から、肝試しも、お化け屋敷も、全然好きになれなかった。ホラー映画はおろか、テレビのニュース番組でさえ、殺人事件の話になると急いで耳を塞ぐ。そんな自分に、果たしてホラーなんて演じられるのだろうか。手元に届いた真っ赤な表紙の台本は、初めはページをめくるのも恐ろしく、朝の明るい時間に陽気な音楽をかけながら読んだ。
顔合わせの日、監督からいくつかの名作ホラー映画をおすすめされ、こう言われた。「嘘の感情じゃなくて、ドキュメンタリーのように演じてほしいんです」。怖がっているフリや、幽霊が見えているフリじゃなくて、本当に心底恐怖してほしいのだと。私はこれまでの人生の中で純粋な「恐怖」を感じたことがあるだろうか、と自問した。たぶん、ない。幽霊だって見たことがない。ということは、想像力でなんとかするしかないということだ。
その日から、私は自分が心底「怖い」と思うイメージを拾い集めては、台本の余白を埋めていった。撮影が終わる頃には、その赤い表紙の台本はありとあらゆる恐ろしい絵や写真や言葉で一杯の“恐怖ノート”と化していた。
以下は、その記録の一部(注:ここに邦画が出てこないのは、日本のホラー映画はたぶん世界一怖いと思っていて、今後、日常生活が送れなくなりそうなので手を出せなかった)。
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四月二十八日 晴れ
ラジオ体操と瞑想。朝の早い時間なら大丈夫かもしれないと思い、監督におすすめされた映画『ヘレディタリー/継承』を鑑賞。と言っても、ほとんど目を覆ってしまったので、内容がよくわからなかった。もう一度勇気を出してやっと最後まで観られた。感覚の研ぎ澄まされた人の動きは、緊張感があって美しいと思った。野生動物が皆美しいのは、この「いつどこから敵が襲ってくるかわからない」という緊張感があるからかもしれない。
昼、太極拳へ。「今日はなんか忍者みたいですね」と先生に言われる。忍んでいる感じ。この世界に参加していない感じがしたのだろうか。
四月二十九日 晴れ
六時起床。瞑想、ラジオ体操。『フランシス・ベイコン・インタヴュー』を読む。「たいていの場合、私たちは覆いの中で生きています。存在が覆い隠されているのです。……人が私の作品を暴力的だと言うのは、たぶん、ときとして私がそうした覆いやベールを一、二枚はがすことに成功しているからでしょう」。ベーコンの画集の中から、「怖い」と思う作品をコピーして台本の余白に貼り付ける。
洗濯物を干してから、映画『エクソシスト2』を観る。ルールのある悪は野球と同じで、持ち場があるのでそこまで怖くない。ルールもなく、目的もよくわからない悪が一番怖い。
五月八日 土砂降りのち雨上がる
朝、大宮八幡宮でドラマ『憑きそい』のお祓い。スタッフと役者がたくさん集まる。無事に撮影が終わりますように。面白い作品になりますように、と祈る。この神社は「小さいおじさん」が出没することで有名らしい。帰り道、犬を抱えた普通サイズのおじさんとすれ違ったけど、小さいおじさんは見かけなかった。
映画『ミッドサマー』を渋谷のTSUTAYAでレンタルしたのだけど、一人で観れず、返却期限日にTSUTAYAに併設されているスターバックスの中でパソコンで観た。たくさん人がいるから大丈夫かと思ったけれど、三十分後には画面を四分の一くらいに小さくして、イヤフォンも外してしまった。崖から人が落ちるシーンで挫折して、そのまま返却。どうしてこんなに怖くする必要があるのかわからない。怖さも進化している。
五月十日 晴天
ドラマ『憑きそい』初日。監督のスタートの声がかかる直前に、ロケの家の窓から一羽の鳥が入ってきて部屋の中を旋回し、また外へ飛んで行った。驚いた。
五月十一日 晴れのち曇り
朝四時半に地震で目がさめる。撮影二日目にして、肩こりがすごい。「恐怖」の感情をもっと豊かにしたい。作家のスティーヴン・キングは、「恐怖は『今ここ』で感じる強烈な感情。自己が崩壊するほどの」と、ある本の中で書いていた。どうすればそんな「恐怖」をイメージできるのだろう。
それにしても、今回のドラマは最高のスタッフが集まってくれているのがわかる。良いスタッフというのは緊張感があって仕事がキビキビしている。そして本当に面白い作品に関わろうとしている。
五月十二日 晴れ
五時半に起きる。瞑想と体操。図書館で借りていた本を読む。『アルトー・コレクション3』の中に「言葉は精神にはほとんど語りかけない」という一文を見つけて、本当にそうだと思った。「言葉」を超えたイメージを体の内側と外側に充満させないと、恐怖(叫び)には到達できない。
夜、監督からおすすめされていたドラマ『チェルノブイリ』を観る。一九八六年に旧ソ連のウクライナの村で起こった原発事故をもとに作られた作品だった。全てが素晴らしかった。脚本も、どの俳優も。そして音楽がとても印象的だった。作品全体を覆う音は、不吉な霧のように私の心と身体の奥深くまで浸透してきた。アイスランドの音楽家、ヒドゥル・グドナドッティルさんのインタビューを読むと、彼女は実際の撮影にも使われたリトアニアの廃炉になった原発に赴き、“放射能の声”を探り当てようとしたという。ドラマ『チェルノブイリ』の影の主人公である放射能は、一言も喋らず、姿も見えないのだけれど、彼女が“声”を与えたことで圧倒的な存在感を放っていた。
そういえば、三年前、コロナウィルスが世界中でわけのわからない恐ろしい存在として騒がれ始めた頃、新型コロナウィルスを音(サウンド)に変換するという実験で奏でられた曲を聴いたことがあった。どんなに恐ろしい音楽が展開されるのかと恐る恐る聴くと、一定のリズムの中で音のハーモニーが淡々と続いていく現代音楽のような曲だった。美しい、と言ってもよかった。私は、そのひんやりとした音に耳を傾けながら、人間の力の決して及ばない自然界の摂理のようなもの、人間より遥かに大きな何かの意志のようなものを感じて震えたのを覚えている。
ドラマ『チェルノブイリ』の中で「事態は制御下(under control)にあります」という台詞が出てくる。事故の被害イメージと責任を最小限に抑えたくて、原発の上層部が発した言葉だった。でも、グドナドッティルさんの“放射能の声”に耳を澄ませていると、この世界はそもそも人間がコントロールなどできないほどに大きく、予測不可能なものに満ち溢れているのだということに気づかされる。
五月十三日 雨
午前中、『アルトー・コレクション3』の続きを読む。気になる言葉をノートに書き出していく。血が濃くなってきている。血を濃くする作業だ。
夜、注文した大橋仁さんの写真集『はじめて あった』がドアの外に届いていた。何年も前に「彼がノン・フィクションでやったことを、私はフィクションの世界でやるんだ」と意気込んだことがあった。でも結局、現実は虚構に辻褄を合わせるようにしっかり取り分をとっていき、どちらからともなく混じり合ってしまった。彼の新しい写真集をめくりながら、「人は最後に誰かの手を握っていたいのだ」と思った。中身を見ずに勘で買ってしまったけれど、良かった。
五月十四日 雨のち曇り
午前中、東京都写真美術館へ。図書館の閲覧室で大橋仁さんの過去の写真集を見る。動悸。ページをめくる時の罪悪感。背後が気になる。目をそらしたくなる。
帰り道、老人のテンポで歩く。呼吸が浅く、身体に力が入らない。写真集にだいぶエネルギーを吸われたのか、全体的にだるい。でも、トラウマのようなイメージをしっかりもらった。
身体の中が煮詰まって、血が濃くなっている。今朝は悪夢を見た。「お前は最後たった一人で自殺する」という悪魔の声に、「私はたった一人じゃないし、自殺しない」と目をそらさずに見返すんだと思った。
五月十六日 夏日
ドラマの撮影。あるシーンで、本当におぞましい想像をした。あまりにも酷いイメージを思い描いてしまったことに自己嫌悪になる。でも、自分にとって親しい誰かや、大切な存在を使ったほうが生々しい想像力につながる。
五月二十四日 晴れ
七時起床。洗濯物を干してから、ノン・フィクション作品『心臓を貫かれて』を五時間読む。「我が家に起こったことは、あまりにも恐ろしいことであり、それは僕らの代で終わるべきであり……その荒廃の息の根を止めるただひとつの方法は、自分を抹消してしまうことである」という箇所を読みながら、映画『ヘレディタリー/継承』でも同じようなテーマが語られていたと思った。
夕方、草木堂で野菜を買い、銭湯へ。買った焼き芋を、顔なじみの九十歳のおばあちゃんと、もう一人居合わせた女性に一つずつあげた。飴玉をもらったお礼。わらしべ長者みたい。
夜、『心臓を貫かれて』を読み終わる。
六月二日 雨、竜巻
ドラマ『憑きそい』クランクアップ。ピンク色の花束をもらった。人生でこんなに恐ろしいことをたくさん想像したのは初めてのことだった。毎日怖がってばかりいたせいで、日常生活では携帯が鳴るだけで飛び上がり、夜、道で人とすれ違っただけで心拍数が上がるようになってしまった。でも、撮影中は最後まで笑いが尽きなかった。スタッフの方や監督と笑いながら立ち話をして、タクシーに乗って雨の中帰ってきた。日本酒入りの熱いお風呂に浸かりながら、無事に終わった幸せを噛み締める。
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このようにして、私の「恐怖」への探索の日々はひとまず幕を閉じた。
撮影期間中に気づいたことがある。それは、「恐怖」をなくそうとして、いろんなものが発明されてきたのだということ。暗闇を恐れて電気が、孤独を恐れてあらゆるコミュニケーション手段が、死を恐れて医薬品や保険制度が……。でも、遠ざけられ、細切りにされ、薄められた恐怖は、今度は「不安」という不吉な予感に姿を変えて私たちの周りに常に漂うことになった。見えないところに押しやったものは、いつか必ず何かしらの形で帰ってくる。しかも今度はもっと恐ろしく、もっと強烈な姿になって。
ホラー作品に登場する幽霊たちを見ていると、私たちが暗闇に葬り去ったつもりでいた「何か」の影が可視化されたものなんじゃないかと思えてくる。それは、映画『ヘレディタリー/継承』の主人公の母親が、心の奥深くに隠した決して口に出せない言葉だったり、ドラマ『チェルノブイリ』の原発事故で噴火口のようにぱっくりと口を開けた原子炉から、とめどなく吹き出す炎と放射能だったりする。あの光景は、私にはまるで世界中の闇に押しやられたものたちの「叫び声」のように思えた。
今、手元には恐ろしいイメージで埋め尽くされた一冊の赤い台本が残っている。
スティーヴン・キングは、ある本の中で、自分がホラー作家として成功できたのは、四六時中怖がっている母親に育てられたおかげだと語っていた。「母はいつも『最悪の事態を想定しなさい』と言い聞かせていた。最悪の事態を想像しておけば、それは起こらないと信じていた」と。
撮影中、私はありとあらゆる「最悪の出来事」を想像した。思いは現実になるだろうか? いや、きっとならない。私はそう自分に言い聞かせて、この赤い“恐怖ノート”を閉じることにする。もう当分開くことがないように。
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